ヨコハマ海洋市民大学2025年度講座第5回「横浜―海と湊の400年史」を開催しました!
ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は、令和7年10月2日(木)に横浜の海が抱える社会課題の解決に挑戦する市民を養成する、ヨコハマ海洋市民大学2025年度第5回講座「横浜―海と湊の400年史」を開催いたしました。このイベントは、次世代へ豊かで美しい海を引き継ぐために、海を介して人と人とがつながる“日本財団「海と日本プロジェクト」”の一環です。
2025.12.02

イベント概要
・ヨコハマ海洋市民大学実行委員会は「横浜の海が抱える社会課題を自ら考え、解決できる市民(海族・うみぞく)」を育成するヨコハマ海洋市民大学2025年度講座の第5回目を開催した(年10回開催)。
・開催日時:令和7年10月2日(木)19:30~
・開催場所:象の鼻テラス(横浜市中区)
・参加人数:46名(会場受講生29、オンライン受講生7、講師1、ゲスト・スタッフ3、実行委員6)
・共 催:海と日本プロジェクト
・後 援:横浜市・海洋都市横浜うみ協議会
講師紹介と活動概要
講師の河北直治(かわきた ただはる)さんは「横濱界隈研究家」として横浜市内の運河周辺史について調査・執筆活動をされており、近年はその運河史を通し横浜を新しい視点でとらえる試みに取り組まれています。また横浜の町を市民に広く知ってもらうため「ヨコハマ路上観察学会」を主宰され毎月複数回、横浜のあちらこちらを参加者とともにガイドをしつつ歩かれています。ご本人は怪しげな団体だと仰っていますがその開催回数は、なんと120回を超えています。
河北講師のブログ YOKOHAMA xy 通信 https://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/
はじめに
「運河史を通し横浜を新しい視点でとらえる作業を終活としています。今回はその中間発表的な位置づけてお話できればと思っています。」と言う前置きで講座が始まります。また講座で使用した地図・絵図は講師自らが収集したものを使用しており、出典はそのほとんどが「個人蔵」と言う貴重な講座となりました。ヨコハマ海洋市民大学でもこれまでたくさんの歴史資料を見てきましたが今回も初めて拝見する資料もありました。なので講師の河北さんには終活と言わず、ずっとご活躍いただきたいところです。また近隣の高校の授業で地元横浜の地形・凸凹のお話をされ、高校生のリアクションを楽しまれたお話とともに講座が進みます。

講師 河北さん

講座の様子
400年を俯瞰する
今回はタイトルにあるように横浜の水辺400年の歴史を俯瞰すること、そして人間と海(水辺)の共生の歴史を紐解くこと、さらには地域の文脈を理解する学びの機会にするというところを意図されているようでした。そんな400年前の横浜とは、どんなところでしょうか。まだ関内・関外は干拓されていません。入海でしたので真水が湧くところに集落が出来上がります。その頃には野毛村、太田村、中村(石川)村の名称があります。また蒔田のように蒔田「分」と言う表記も見られます。この「分・ぶん」は村よりも小さい単位を指すそうです。現在でも神奈川区には斎藤分町と言う地名が残っておりその名残のようです。ここ将来の横浜が近隣との水戦争に巻き込まれないように水道整備計画を立てたパーマーの先見性についても言及されていました。現在の水道事業(経路)などの説明もありました。横浜市の水は道志川の水だと思われがちですが、じつは相模川(+道志川)や酒匂川などからも送られて来ています。真水がないと暮らすことができません。そのように真水のあるところに人が集まっていた400年前と根本はあまり変わっていないのが分かります。少し話が広がり現代の神奈川、東京の水道事情や課題などにも言及されていました。

入海時代の横浜

現在の横浜の水道事情
水と水辺の視点から
土木技術が高度に発展する以前の古代・中世は橋を架ける技術あまりなく、川幅の広い川を渡るのが大変でした。そのため街道(例えば鎌倉街道など)は水辺から離れたところにあり水辺での生活者はそれほど多くなかったようです。それが戦国時代を経て築城など土木や建築の技術が高まるにつれ生活圏が山の中から水辺へと広がってきます。この水辺での生活圏も現代の東京湾をみても分かるよう日本経済の要へと発展しています。そこでのキーワードは港です。港を中心に物流が発展してゆきます。講師は「東京湾、東京湾と言っても接している面積で考えるとかなりの面積は千葉県です。東京都はほんの5%!」と強調して会場を笑わせます。そして我らが横浜港もすべてが東京湾に接しているのです。

古代・中世の街道と横浜

日本経済の要
この発展してきた400年の横浜ですが、横浜だけの話ではありません。実は約400年前から都市部の人口集中と増加が急に進み食糧事情も変わってきていたのです。それが横浜の干拓事業が始まる時期とほぼ一致しています。スライドで示されたように人口と耕地面積が右肩上がりで増え大開墾の時代が始まりました。この流れに横浜も巻き込まれて行きます。この江戸時代の「武蔵田園簿」と言う資料がスライドで示されました。各村で収穫されるお米換算の農作物量が管理されていました。この中にも横濱村や戸部村の記載があります。ここでもお寺の名前を指して「この頃のお寺は地元が奉納したということにして作物などを保存していて、地域資産のバッファになっていました。まあ今でいうと脱税のような…」とちょっとした豆知識も。河北講師のお話はこの手の豆知識があちこちにちりばめてあり、その分量も大変なものになります。それもまた講座の面白いところでもあり、うっかりそこばかりに意識を向けてしまうと受講生が今日の本筋を見失うと言う罠にもなり、なかなかスリリングな講座なのです。

急増する400年前の人口・耕作面積

武蔵田園簿
講師はこの頃の物流は沿岸航路が充実していたこと、伊勢からお茶が、大阪・灘からお酒が江戸に運ばれてきたことなどに触れていました。灘がお酒で有名になったのも淀川中流域の摂津にあった酒蔵を積みだしに便利な灘に移すと言う計画から始まったとの事。重たいお酒の樽で箱根の山越えするよりも海から樽廻船で運んだ方が間違いなく効率が良いですね。日本の経済が港を通じて発展してきたのが分かります。
横浜の地形と発展
ぎっしりとA3用紙に詰め込まれた配布資料に基づいて講座が進みます。「この資料を全部お話するだけで2時間以上かかるのですが、時間内に終わるよう頑張ります。」と言う言葉が情報量の多さを物語っています。現在の横浜は横浜駅周辺の帷子川(かたびらがわ)と関内・関外地区の大岡川(おおおかがわ)の河口域を干拓して発展してきました。またこの干拓をするための埋め立ての土砂も大岡川河口域にあった洲閑嶋(しゅうかんじま)と言う山を削ることで調達できました。この洲閑嶋の先端には観光地として栄えた弁天社もありました。現在でも関内に弁天通という地名が残っています。

当日のA3配布資料

二つの川と入海
400年前の横浜はまだ先述のように二つの川と入海の小さな村の集まりでした。それが前半の200年では東海道が整備されることで街道・宿場を支える必要があり周辺にある海辺の集落の役割を拡大して行きます(保土ヶ谷宿の助郷として宿場経済を支えることなど)。また人口増加による食糧事情改善のための新田計画が江戸の吉田勘兵衛によって開始され横浜村の水田・耕作地が増加しました(村の収入増!)。富士山の宝永噴火による降灰の被害からの復興では大岡川から分流する中村川を直線化することで現在の中華街の場所に土砂が堆積し横浜新田の干拓につながったこと、関内・関外エリアの干拓地が河口域へと広がることで上流域にある吉田新田は畑地へと変容していくなどの変化が解説されていきます。またこの頃は海沿いにあった弁天社と姥が岩(うばがいわ)と言う観光名所が多くの人を集め、その保土ヶ谷方面からの歩行者によってあぜ道の強化(観光客が踏み固めることによる人普請)などが計画的に行われていたようです。この段階的な発展を経て現在の関内・関外エリアが概ね陸地(田畑・集落)となった江戸末期にペリーが来航します。ペリーは江戸湾(東京湾)に直接乗り込んできます。しかし他国同様に、この時は開国交渉には至らず帰国するのですが、その際に東京湾、横浜港周辺の水深を調査していったそうです。これが横浜開港の4~5年前のこと。そののち、この横浜村があった場所でペリーは外交交渉を行うことになり、さらに開港場として活躍することになります。それには当時の東海道保土ヶ谷宿との経済関係・助郷や名主(保土ヶ谷村の刈部氏と石川村の石川氏)との良好な関係から争いごともなくに横浜村の住民が移転に協力したことなども大切な要素だったようです。

新田時代200年

開港直前の横浜村
港と鉄道による海岸線の変化
「横浜にとって明治維新あんまり関係ないんですよね」と講師は語ります。「横浜開港以来、外国文化がここに入っていましたから、江戸とは違う時計が回っていたと思います。そして江戸時代末期の近世の技術も併せてきちんと生きていたからこそ明治5年に鉄道が整備されるのもスムーズに進むんです。そうじゃないとこんなにすぐに開発が進むはずがありません。この鉄道の開発でも海岸線を全部埋めてしまうような大がかりな土木工事をやり遂げています。」と当時の横浜の先進性と柔軟性を感じさせるお話です。それでもまだこの頃は西洋の文化と日本の農村が混在していたようです。しかしこの後は急速に港湾施設としての開発が進みます。そして現在の名称となるみなとみらい地区は開港当時から常に最先端の技術や物が入ってきた場所であると語ります。

開港場と鉄道の整備

港に必要な水深
明治から大正へと時代は移り国際港としての物流量が増えるにしたがい、陸路だけでは運搬量が不足するため、港からの運河の整備もすすみました。いまはすっかり姿を消していますが、いくつもの運河がありました。そして荷物を上げ下ろしするための施設(雁木(がんぎ)・階段護岸)がたくさん整備されました。なんと大正時代には大岡川水系だけでも84~85か所もあったそうです。

階段護岸

雁木錦絵

震災により倒壊したエリア

震災により全焼したエリア
その大正時代、港が発展する中、関東大震災(講師は神奈川大震災と表現していました)が発生します。
不幸なことに石油の貯蔵タンクから運河に石油が流れ込んでしまい、市内の火災と一緒に運河の水面も燃えてしまいます。これによって橋も燃えてしまい、被災者の避難経路を絶ってしまったそうです。これも被害を大きくした原因のひとつでした。下の写真(左)の赤丸が石油の貯蔵タンクがあった場所ですが、不思議なことにこの場所は火災の被害がなく、震災復興に大阪から駆けつけてくれた人たちが拠点として使ったそうです。そしてこの場所を感謝を込めて大阪村と町の人は呼んでいました。ただこの大阪村の方たちの活躍は横浜市の歴史にはほとんど登場していないのだそうです。当時の資料を「横浜市八聖殿郷土資料館」の館長・相澤竜次さんがまとめていらっしゃるとの事でした。
また千葉県の富津市からも沢山の漁師さんが復興に駆けつけてくれたそうですが、こちらも横浜市の歴史には登場されないようです。ちょっと残念です。

(赤丸)石油貯蔵タンクの場所・大阪村

400年の振り返り2
後半の200年を整理するスライド(上・右)が映し出されました。新田時代のあと水辺は外交交渉の場として活躍し、開港場となり、外国人居留地としても整備されます。また東海道と接続する横浜道(よこはまみち)の整備や横須賀~横浜航路や神奈川航路も開設されました。明治5年の鉄道開通の後は港湾経済のために運河の整備も始まっています。これには関外地区の住宅化による必要性もあったようです。この運河の整備により運河沿いに産業が集積し町が発展します。この産業には材木、染物、生糸、製茶、紙などがありました。しかし関東大震災によって関内・関外地区はほぼ消失してしまいます。
震災復興が進むと東京も港湾機能を整備することになり、横浜のアイデンティティをかけての駆け引きがあったそうです。順調に発展するなかで太平洋戦争が起き、空襲による消失や終戦後の米軍による接収が大きく町を変えてしまいます。この接収によって時代から取り残された場所をどのように開発してゆくのか、もこのエリアの重要課題でした。並行して港湾経済も発展していたので運河には艀(はしけ)がたくさん並び町の経済にも貢献していました。多い時期には30,000隻を超える艀が横浜で活躍していたそうです。

敗戦により接収されたエリア

30,000隻を超える艀
高度成長期を向かえると物流も改革が進みコンテナ輸送が増え、艀の必要性が減ってしまいます。そのため運河や雁木も役割を終えます。そして飛鳥田市長による六大事業が始まり、市電や運河が廃止となります。そのあとには地下鉄や高速道路が作られました。その後も造船不況など港には受難の時期がありましたが水辺と町の関係は切り離すことができません。その後の発展は皆さんご存知のみなとみらい地区につながっています。

運河の廃止と鉄道の設置

これからの横浜の開発
今回振り返ってきたように横浜は水辺とともに発展してきました。実は神社の鳥居もほとんどが川を向いて立っているそうです(例外もありますが)。そんな横浜のこれからはどうなるのでしょうか。話題の山下ふ頭もまだまだ市民から意見を聞いている段階です。講師は「昔の海岸線に戻す!と言う発想もあっていい。それはもちろん無理だけれど、山下ふ頭の基部に運河を通し市民が乗る船が通過できるだけでも市民と水辺の距離感が変わる」と言います。今回の講座は400年という時間で温故知新という言葉をかみしめる時間になったように感じました。
参加者の声
・聞いたこともない資料の名前もあり面白かった。
・内容が多岐にわたり、メモをとるのも大変だった。
・これからの横浜について水辺との関わりを忘れてはいけないという講師の想いを強く感じた。
<団体概要>
団体名称:ヨコハマ海洋市民大学実行委員会
URL:https://yokohamakaiyouniv.wixsite.com/kaiyo/
活動内容:横浜市民が横浜の海が抱える社会課題を自ら考え解決に向けて行動できる海族(うみぞく)になるための養成講座を年10回(コロナ禍以前は年20回)開催している。座学だけではなく実際に海や海を学べる野外講座も開催している。

日本財団「海と日本プロジェクト」
さまざまなかたちで日本人の暮らしを支え、時に心の安らぎやワクワク、ひらめきを与えてくれる海。そんな海で進行している環境の悪化などの現状を、子どもたちをはじめ全国の人が「自分ごと」としてとらえ、海を未来へ引き継ぐアクションの輪を広げていくため、オールジャパンで推進するプロジェクトです。
https://uminohi.jp/
参加人数:46人